夏真っ盛りの8月上旬、妻、8歳の息子、私の家族3人でA野営場に来ている。A野営場は自然の豊富な無料キャンプ場で、山の登山口に近い事もあり、時期によっては登山客の前泊基地になっている事もある。テントサイトは林間にあり、広葉樹の葉の隙間からの木漏れ日は夏でも涼しげで気持ちがいい。キャンプ場内の施設は質素だが、利用者が登山客中心ということもあってキャンパーのマナーも良く、私の家族もそれに混ざって安心してキャンプする事が出来ている。妻も、高規格のキャンプ場なんかよりも、ここの方がよほどのんびり出来るし、自然の中で気持ちがいいと、A野営場を気に入っている。
今日もH野営場に昼頃から入り、炊事棟のやや左脇にテントを張ってタープの下で過ごしている。私の家族以外にもまばらにテントを張っている人たちが居る。どれも山岳系のテントで、ファミリーキャンプ用のテントを張っているのは、私たちだけのようだった。
まだ昼ごはんを食べていない。夜はバーベキューをするので、昼はあっさりとしたものがいい。そうだ、簡単にそうめんにしよう。キャンプサイトのすぐ脇に沢が流れているから、川辺でさらさらという流れる音を聞きながら食べるそうめんは、納涼感バツグンだろう。炊事棟から水を汲んできて、そうめんを茹で、流水で洗う。タレは梅を叩いてシソのみじん切りを加えた特製のものだ。
川辺に食卓を設け、家族でいただきますをして食べる。うん、美味い。息子も妻もニコニコしながら食べている。キャンプで食べるごはんっておいしいね、食べ終わったら虫を捕りにいこうね、と息子も嬉しそうにしているのを見ると、来て良かったと感じる。
昼食を食べ終わった後は、沢で水遊びをさせ、虫網と虫篭を持って虫捕りをして遊んだ。家族3人で遊んだ楽しい時間だった。
夕食のバーベキューを食べ終わって、ランタンを囲んでゆっくりしていたら、ガチャガチャと音をさせてこちらに近づいてくる音がする。大きな荷物を持った男が、私のキャンプサイト前を何往復かしたと思ったら、私のテントサイトから10メートルも離れない位置にテントを張り始めた。一人らしい。こんな時間からキャンプか。キャンプ場は広いのだから、もっと離れた場所にテントを張ればいいだろうに。
男のテントサイトから、何やら声が聞こえてくる。何やらひたすらブツブツと喋っているようなのだ。男一人ではなかったのか。他に同行者でも居ただろうか。男のテントサイトでランタンが灯され、あちらをチラリと伺ったが、やはり一人のようだった。その間も、何かずっと喋っている。何だろう。とても気味が悪い。
息子が眠そうに目をこすっていたので、妻と一緒にテントの中に入らせた。暗くなり始める頃から夕食を食べ、真っ暗になったら寝る。キャンプはこうした自然のリズムの生活になるのも好きだ。私は、少し焚き火を楽しんでから寝よう。
バァン!バァン!バァン!
息子と妻がテントに入ってしばらく経った頃、突然何かを叩きつける様な大きな音と、ガリッとかバリッというような何かが割ける音がし始めた。さきほど来た男の方向だ。その大きな音の合間に男のボソボソ声が漏れ聞こえる。そのバァンという打ち付けるような連続音は一定間隔で鳴ったり止んだりしている。バァンという連続音がしなくなったと思ったら、次はガリガリゴリゴリという音が聞こえてくる。
息子も妻もテントから、どうしたの、何の音なの、と顔を出した。こんな時間に、寝ている人間が起きるようなこんな大きな音を平気で立てるなんて、なんて迷惑なんだ。さすがにこの時間にこれはないだろう。一言言ってやらねば気が済まない。
「ちょっとあんた、この時間に大きな音を出してうるさいよ。こっちは子供が寝ているのだから静かにしてくれ」
男はひょろりとした痩せぎすの色白で、手にナイフと薪を持って地ベタにそのまま座っている。私が声を掛けた瞬間、はっとした様な顔をして、こちらを睨んだ。口の角に白い泡が付着している。
「あんたこそうるさいな。今、動画を撮っているんだからあっちに行ってろよ」
男は舌足らずの口調でそう言って目線を手元に戻し、手に握っている薪をナイフでゴシゴシとしごいている。
男の横には細く割られた薪が盛られ、手元にはささくれた薪が握られている。足元には、数本のナイフと手斧も転がっている。このキャンプ場は直火禁止なのに、男の目の前には竈にするだろうと見られる石が並べられている。
「動画なんて、そんなのあんたの勝手だろう。もう9時半なんだから、マナーくらい守ってくれ。バンバンと派手な音を何回も出して何をやっているんだ。迷惑なんだ」
「俺は、このキャンプの動画を撮ってアップしなければならないんだ。ブッシュクラフトも知らないのかよ。バトニングで薪を割って、フェザースティックを作って…」
男は顔も上げずにそう言うと、下を向いたままボソボソと何か言い続けている。話が噛み合わない。
この男は動画の撮影をしていたから、ボソボソとずっと一人で喋っていたのか。やっと合点がいった。動画サイトでキャンプの動画を見た事があるが、撮影者がコメントしているシーンはこうやってキャンプをしながら喋っているものなのか。撮影している本人はいいだろうが、事情を知らない周囲のキャンパーにしてみれば尋常ならざる雰囲気だ。
この男に見覚えは無いが、ブッシュクラフトの動画も見た事がある。サバイバルがどうのと薀蓄をベラベラ語っているのに、小奇麗なキャンプ場で薪いじりをしているだけの噴飯物の動画だった。この男もホームセンターで売っている様な綺麗で真っ白な既成の薪を細かく割って、それでささくれをせっせと作っている。テントやタープもピカピカの最新のものだ。良く解らないが、本当のブッシュクラフトなら、薪くらい現地調達するのではないのか。マッチ一本でも火が点きそうなよく乾いた薪をいじくるのがブッシュクラフトなのか。私が以前見た動画もこの男も、雑誌に載っていたブッシュクラフトの雰囲気とだいぶ違っているように見える。それに、こんな数のナイフと手斧は何に使うのだ。
私が男のボソボソ声を聞きながら手元をほんの数秒観察していた瞬間、男がガバッと立ち上がった。手に握っていた薪を私に投げつけ、唾を沢山飛ばしながら、言葉にならない奇声のようなものを発している。男の目は血走っていた。据わった目をしている。見開かれた目から発せられる異常さに私は戦慄した。私は走って戻る選択肢意外はなかった。私が戻ろうともたついている間も、男は奇声を発し続け、自分のキャンプ道具を蹴ったり、細割れの薪を投げつけてこようとした。男の手には、ブッシュクラフトナイフが握られたままだった。ほんの10メートル後ろ向きで走るだけなのに、背後から走って追ってくるのではないかとの思いが拭えなかった。自分のテントに辿り着く頃には脂汗が噴出していた。
テントの中に居た妻と息子をすぐに車に退避させる事にした。逃げようとしている妻と息子に対し、男のテントの方から、また奇声が発せられた。
キャンプ道具は置いてそのまま自宅に帰った。あの男の隣のテントで妻と息子を寝させるくらいなら、たとえキャンプ道具なんか無くなったとしても惜しくはなかった。